大阪市立北斎場で葬儀を行った有名人について

北斎場

ここでは、大阪市立北斎場で葬儀や火葬が行われた松本竜助さん・前田竹千代さん・正司玲児さんの3人をご紹介します。

松本竜助さん

松本竜助(まつもと・りゅうすけ)さんは、1956年4月6日生まれで徳島県出身のお笑い芸人です。

明石家さんまさんの紹介がきっかけで、1976年に島田紳助さんと漫才コンビ「島田紳助・松本竜介」を結成しました。

漫才では、ツッコミ役を担当していました。

当時はスーツで漫才を行うのが一般的でしたが、リーゼントヘアに作業着姿で漫才をする「ツッパリ漫才」のスタイルを確立しました。

勉強ができず、落ちこぼれといわれる人の本音を代弁する漫才は、特に若い世代の人たちから絶大な支持を集めました。

コンビで様々なお笑いのコンテストにも出場し、上方お笑い大賞銀賞や上方漫才大賞新人賞などを受賞しています。

その後、テレビ番組の『THE MANZAI』などから火がついたといわれる1980年代前半の漫才ブームでは、B&Bやツービート、横山やすし・西川きよしなどとともに、島田紳助・松本竜介はブームの中心的な存在となりました。

また、フジテレビで放送されていた『笑ってる場合ですよ!』や『オレたちひょうきん族』など、テレビ番組にも多数出演し、幅広い年齢層から人気を集めました。

その後、島田紳助さんがタレントや司会など一人で行う仕事が増えたことなどから、1985年にコンビを解散しました。

現在テレビなどで活躍するお笑い芸人で、ダウンタウンの松本人志さんは、影響を受けた芸人として島田紳助・松本竜介の名をあげています。

コンビとしての活動期間は10年足らずでしたが、彼らの漫才は後輩芸人にとても大きな影響を与えたようです。

コンビ解散後はしばらく一人でタレント活動を続け、『借王〈シャッキング〉 THE MOVIE 沖縄大作戦』や『難波金融伝 ミナミの帝王 劇場版 PARTVI』などの映画にも出演しました。

また、ほぼ同時期にいくつかの事業を起こしていました。

しかし、事業はうまく軌道に乗らず多額の負債を抱え、1998年には自己破産の申し立てを行いました。

のちに出版した「ぼくはこうして破産したー首が回らなくなるまでの全軌跡」 という本の中で、1億3000万円の借金を抱えて自己破産にいたった生き方を明かしています。

自己破産を機に、吉本興業とは絶縁に近い状態となりました。

自己破産したあと、芸能界への復帰をかけて河内家菊水丸さんに弟子入りしました。

「河内家ピンポン丸」という名前で活動を始めましたが、うまくいかず長続きしませんでした。

その後、芸能活動は休止状態になっていたようです。

2006年3月に松本竜助さんは脳出血で倒れ、4月1日に49歳で亡くなりました。

前田竹千代さん

前田竹千代(まえだ・たけちよ)さんは、1952年12月23日生まれで大分県の出身です。

1977年にお笑い芸人グループ「チャンバラトリオ」に入門しました。

チャンバラトリオは、東映京都撮影所で元々斬られ役の俳優をしていた山根伸介さんと南方英二さん、伊吹太郎さんの3人で結成されたお笑いグループです。

時代劇風のチャンバラをテーマにした本格的な剣劇と、ボケ役が大きな「ハリセン」で頭などを叩かれて大げさなリアクションをとるコントで人気を集めました。

ハリセンはメンバーの南方さんが考案し、特注した厚紙をじゃばら状にして束ねたものです。

チャンバラトリオがコントで使用してから、ハリセンはテレビのバラエティ番組などでよく使われるようになりました。

また、主にハリセンで叩かれ役をしていた伊吹太郎さんは、テレビの情報バラエティ番組『久米宏のTVスクランブル』の出演をきっかけに、「ハリセンおじさん」としても改めて注目されました。

チャンバラトリオのネタをリアルタイムで楽しんだ世代の人たちには、「大阪名物ハリセンチョップ」などは彼らの代表的なギャグとして強く印象に残っているかもしれません。

竹千代さんは、1979年に前田五郎さんの弟子をしていた前田犬千代さんと漫才コンビ「前田犬千代・竹千代」を結成しました。

翌年の3月には初の舞台をおこなっています。

その後、吉本興業が運営し花月三館といわれた、うめだ花月やなんば花月、京都花月などの劇場で漫才をメインに活動していました。

1981年にはコンビで第11回NHK上方漫才コンテストに出場し、優秀賞を受賞しています。

また、『ヤングおー!おー!』や『お笑いスター誕生!!』といったテレビ番組にも出演しました。

1985年にはコンビは解散し、犬千代さんは芸能界を引退しました。

コンビを解散したあと、竹千代さんは引き続きチャンバラトリオの弟子をつとめていましたが 、1994年から正式にメンバーとして加わりました。

舞台ではハリセンで叩かれても、「なーんとも思てません」と返すギャグなどで笑いを誘い、人気を博しました。

また、テレビ番組にもたくさん出演しました。『裸の大将(72)~少女と清の母恋し・徳島淡路編』や『なんじゃそら三人組(2) 旅情編(なんじゃそら3人組)』、『大助・花子の怪傑荒馬天狗』といった番組でお笑いの枠を超えて活躍しました。

漫才コンビを解散した後も、前田竹千代さんは精力的に様々な活動をしていましたが、2008年11月9日に胃がんのため55歳で亡くなりました。

正司玲児さん

正司玲児(しょうじ・れいじ)さんは、1939年1月17日生まれで出身は大分県国東島(北朝鮮・元山市との話も)です。

1964年に正司敏江さん(故人)と結婚し、漫才コンビ「正司敏江・玲児」を結成しました。当初は兄妹コンビなどと偽ったこともあったようですが、1968年に正式に夫婦コンビ、正司敏江・玲児として道頓堀角座の舞台でデビューしました。

しかし、デビュー後、夫婦の間で漫才に対する意見のくい違いなどが起きていました。

ある日、舞台上でカッとなった玲児さんが敏江さんの頭をたたきました。すると敏江さんが殴り返したのです。

どつかれた玲児さんが応酬して本気のケンカに発展しました。ところが、観客は大ウケしたのです。

「どつき漫才」のスタイルは、舞台でのどつき合いから生まれ、お笑い好きの人たちの注目を集めました。

1969年には第4回上方漫才大賞新人賞を受賞しています。

受賞をきっかけに正司敏江・玲児の人気は急上昇し、その後はコンビでメディアに数多く登場するようになりました。

『敏江・玲児だ、みんな集まれ!』や『奇想天外歌合戦』、『時間ですよ』といったテレビ番組に出演しました。

1970年には『第21回NHK紅白歌合戦』に出場し、応援合戦に参加しました。

また、1972年に公開された『座頭市御用旅』などの映画にも出演しています。

華やかな活躍を続けていた正司敏江・玲児ですが、玲児さんと所属事務所の松竹芸能との間で揉めごとがあったようで、ある時期を境にテレビのレギュラー番組が一気に無くなりました。

その後は主に地方を回り、営業活動などをおこなっていたようです。

また、私生活では玲児さんの浮気が発覚したことなどから、1974年に結婚10年で二人は離婚しました。

しかし、人気が根強かったため、コンビの活動は継続しました。

離婚後は家庭の不幸な出来事をネタにしたり、テンポの良いどつき漫才を変わらず繰り広げたりして観客を魅了しました。

2000年代には介護施設などでの慰問を積極的におこなっていたようです。

そして、松竹芸能が運営していた浪花座の2002年の閉館や、B1角座の2008年の閉館の際には、寄席興行などで正司敏江・玲児はトリをつとめました。

2010年に入ると玲児さんが体調を崩すようになりました。

病気と闘いながらも、11月に大阪市の国立文楽劇場で開催された「11月上方演芸特選会」では漫才を披露しました。

しかし、11月上方演芸特選会の出演が、コンビでの最後の舞台となりました。

正司玲児さんは、12月10日に成人T細胞白血病リンパ腫のため71歳で亡くなりました。

まとめ

今回は、大阪市立北斎場で葬儀・火葬を行った松本竜助さん・前田竹千代さん・正司玲児さんをご紹介しました。

3人ともお笑いと深い縁のある人生でした。天国でも誰かを笑わせているかもしれません。