やすらぎ天空館で葬儀を行った有名人について

やすらぎ天空館

やすらぎ天空館ではミュージシャンや芸能人、野球選手など多くの著名人も葬儀を行っています。
ここでは葬儀を行ったET-KING・TENNさんや桑名正博さん、富田勝さんについてご紹介します。

ET-KING・TENNさん

大阪の福祉専門学校時代の仲間たちとヒップホップグループET-KINGを結成したTENNさん。

そのためTENNさんは介護士の資格を持つ、異色のヒップホップ・ミュージシャンです。

ET-KINGは2006年にメジャーデビューすると、関西弁で力強いメッセージの楽曲が人気を博します。

高声の高速ラップを得意としていたTENNさんは、MCを担当しハットがトレードマークでした。

大阪通天閣近くの大国町を拠点に活動していたET-KINGのライブ・パフォーマンスのテーマは「お祭り」。

メンバーは「大阪大国町纒屋 ET-KING」と書かれたお揃いの法被を身に纏い、エネルギッシュなライブ・パフォーマンスを繰り広げます。

このライブではTENNさんも「弐」番の法被を纏っていました。

2007年はET-KINGにとって飛躍の年となり、メジャーデビュー後3枚目のシングル「愛しい人へ」のヒットでブレイクすると、6枚目のシングル「ギフト」では第40回日本有線大賞において有線音楽賞を受賞しています。

順調にミュージシャンとしてのキャリアを重ねていったTENNさんは、プライベートでも2012年にSPEEDの上原多香子さんとの結婚を発表しました。

沖縄アクターズスクール出身のSPEEDは、1990年代後半に一世を風靡した女性4人のダンス&ボーカルユニットです。

2人は東日本大震災復興支援イベントを切っ掛けに出会い、その後SNSを通じて交流し交際に発展すると、TENNさんと上原さんは出会いから半年でゴールインしました。

2014年に全国13ヵ所をまわる全国ツアーを行ったET-KINGですが、ツアーファイナルの大阪フェスティバルホールの公演でET-KINGは充電期間に入るとして一旦活動を休止します。
悲劇が襲ったのは同年2014年の9月25日でした。

TENNさんは大阪市内のマンション駐車場で心肺停止の状態で車中から発見され、わずか35年の短い人生に幕を下ろしたのです。

やすらぎ天空館で行われた葬儀の際には親族や芸能関係者、ファンら1500人が駆けつけました。

葬儀では残されたET-KINGのメンバー6人が最後のライブを開催し、代表曲「ギフト」を熱唱。

TENNさんのパートをメンバー皆で合唱すると、斎場外に詰めかけていたファンも鳴き声と共に声を合わせました。

出棺の際にも斎場外に集まったファン1500人が「ギフト」を合唱してTENNさんに最期の別れを告げました。

TENNさんを乗せた霊柩車はファンの「ありがとう!」という声があがる中、斎場を後にしました。

桑名正博さん

100年以上続く由緒ある廻船問屋の7代目として生を受けた桑名正博さん。

実家は大阪市の閑静な高級住宅街の帝塚山にあり、女中が2名いるという700坪の豪邸で桑名さんは少年時代を過ごします。

裕福な家庭の跡取り息子として何不自由なく育てられたようにみえる桑名さんですが、高校入学後すぐに中退。

16歳の時に大阪万博でアルバイトしたのを切っ掛けに、サンフランシスコ行きを決意します。

当時の西海岸のヒッピームーブメントやニューロックを体験した桑名さんは、帰国後の1971年にロック・バンド「ファニー・カンパニー」を結成しました。

「ファニー・カンパニー」と同時期にデビューした矢沢永吉の「キャロル」は『東のキャロル、西のファニカン』と呼ばれるほどの人気を二分します。

裕福な家庭出身の桑名さんと、経済的に困窮した家庭で育った矢沢さんは比較されることも多かったそうです。

1975年からはソロ活動を開始し、1979年にカネボウ化粧品のキャンペーンソング『セクシャルバイオレットNo.1』がヒットチャート1位を獲得しました。

いわゆる歌謡ロックと呼ばれるジャンルが流行する時代に、桑名さんはこの曲で歌手としての地位を確固たるものにしたのです。

その後は歌手だけではなく俳優としても活躍し、多くの映画やドラマに出演します。

プライベートでは歌手のアン・ルイスさんと結婚しますが4年後に離婚し、後に一般女性と入籍しました。

公私ともに世間の耳目を集め続けた桑名さんでしたが、2012年7月に脳幹出血で倒れ意識不明の重体に。

余命「最大3日」と告げられた桑名さんは、意識が戻らないまま104日にも及ぶ闘病の末に同年10月、家族に看取られ59歳でこの世を去っています。

やすらぎ天空館で行われた葬儀は、歌手の谷村新司さんやB’zのギタリスト松本孝弘さんら多くの芸能人や著名人が参列して行われました。

出棺後、全長4キロに及ぶ御堂筋の沿道に集まった5000人以上の市民は、パレードさながら桑名さんを乗せた霊柩車を声援や拍手で見送りました。

富田勝さん

俊足強打の三塁手として活躍した野球選手の富田勝さん。

富田さんを語るうえで大学野球での活躍ぶりも外すことはできません。

歴史と伝統のある東京六大学野球リーグの中でも1915年に創部された法政大学野球部は、優勝46回と最多を誇る名門です。

1960年以降に頭角を現した法政大学躍進の立役者となったのが、「法政三羽ガラス」といわれ、後にプロ入りした3人の選手です。

「法政三羽ガラス」の1人である富田勝さんは、大学在学時に東京六大学野球リーグで3度のリーグ優勝を経験し、1968年のドラフトで1位指名されて南海ホークス(現ソフトバンク)に入団しました。

1973年には当時の読売ジャイアンツ監督の川上監督から熱望され、読売ジャイアンツに入団することになりました。

しかし移籍後は成績不振もあり思うような結果が出せず、1976年にトレードで日本ハムファイターズに移籍することになります。

パ・リーグの水が合っていたのか、日本ハムファイターズでは移籍の翌年にはキャリア・ハイとなる打率3割越えの活躍をみせました。

1981年に三度の交換トレードで中日ドラゴンズに移籍すると、同期であり六大学時代からのライバルであった星野仙一選手とチームメイトになります。

そして翌年には現役を引退し、12年に及ぶプロ野球生活に別れを告げました。

引退後はテレビの野球解説者を務める一方、バラエティー番組に出演するなどタレントとしても活動します。

その後富田さんは大阪で従業員100人近くを抱える会社を経営し、実業家として成功を収めたのです。

2016年、富田さんは68歳で肺がんのため亡くなりました。

やすらぎ天空館で行われた葬儀には星野仙一さんや、法政大学時代の恩師である松永怜一元監督、プロ野球選手の田淵幸一さんや山本浩二さんら約200人が参列しました。

「法政三羽ガラス」と呼ばれ、共に白球を追った田淵幸一さんと山本浩二さんは、学生時代からの50年に及ぶ友情を振り返り富田さんに別れの言葉を贈りました。

また富田さんは生前より宇宙葬を希望されており、2019年に富田さんの遺骨は人工衛星プランで打ち上げられています。

富田さんの夫人は宇宙に飛び立った夫に毎日話しかけているそうです。

まとめ

やすらぎ天空館で葬儀を行った有名人をご紹介しました。

ヒップホップ・ミュージシャンやロックスター、野球選手と様々な分野で活躍されてきた方々です。

大切な家族や仲間との別れに際して、悲しみと同時に感謝の気持ちを抱く方も多いのではないでしょうか。

当斎場が在りし日の故人を偲び、感謝の気持ちで最後のお別れができる場所になればと思います。